井上さんって一体何をやっている方なんですか?
最近良く言われます。 「井上さんって何をやっているんですか?」
そうですよね・・・今の僕の事しか知らない方にはよく判らない存在だと思います。
1965年10月5日で、杉並区の堀之内と言う所で産まれました。
ザックリ50年前に産まれたわけです。本当に気がついたら50年経っていました。
井上 慎介(いのうえ しんすけ、本名同じ、1965年10月5日 – )は、日本の米国NLP協会のマスタープラクティショナー・セミナー講師・セミナー講師プロデューサー・集客コーディネーター・映像プロデューサー・映像監督・カメラマン。東京都立杉並工業高等学校、専門学校東京デザイナー学院コピーライティング科卒業。
では、どんな人生を送ってきたのか?少しご紹介したいと思います。
仕事としては中学の時に『地図に残る仕事』をやっていました。と言っても、友達の家が工務店をやっていて、そのお手伝いを指定た程度です。
高校に入ってからは、近所のガソリンスタンドでバイトをしたり、蕎麦屋の出前をやったり、バイク便と言う仕事ができる前に、当時付き合っていた彼女のお母さんが、和文タイプをやっていて、その原稿をバイクで届ける個人的なバイトをやったりしていました。引用元:http://blogs.yahoo.co.jp/hatomarukun2000/GALLERY/show_image_v2.html?id=http%3A%2F%2Fblogs.c.yimg.jp%2Fres%2Fblog-67-ac%2Fhatomarukun2000%2Ffolder%2F375327%2F59%2F62147359%2Fimg_7%3F1346777851&i=1
学校は誇らしいわけじゃありません
元々、高校には進学する気持ちはありませんでした。中学を卒業したら、そのまま写真の専門学校に行って、カメラマンになるつもりでした。
ですから、元々勉強が出来ないのに加えて受験勉強もまったくやってませんでしたが、中3の2学期の終わり頃、その専門学校の入学資格が『高校卒業程度』だったので、慌てて入れそうな高校を探したのですが、そんなに都合良く出来ていませんでした。
それでも、なんとか都立の工業高校に滑り込めました。そのまま高校時代は、バイトとバイクとバドミントンとローラースケートに費やしていました。
高3になった時に、やっと写真の道に行けると思ったのですが、専門学校のお金はなんとかなるとしても、当時の写真は、フィルム、現像、プリントの『感材費』がかかりました。
年間200万円ぐらいは学費以外に掛かりそうだったので、貧乏な大学教授の家庭としては無理でした。当時は広告業界に進みたかったので、逆に一番お金の掛からない学部に進みました。それは『コピーライティング』です。
デザインが出来るほど絵が上手いわけじゃありませんし、画材だってかかります。ですが、コピーライティングは紙と鉛筆だけ有れば出来る仕事です。
鉛筆にこだわって『ハイユニ6B』が当時120円でした。専門学校東京デザイナー学院のコピーライティング科に入学してコピーの勉強をしました。
16歳の頃からやっていた、写真でお金を稼ぐという行為
コピーライターへの道と同時並行で、カメラでお金を稼いでいました。写真は実践で覚えようと思い、学校ではなくて、ひたすらシャッタを切りまくりました。
原宿の生写真が流行になった時、たまたまデビュー前のチェッカーズの写真を持っていて、そのネガを貸すだけで、当時のサラリーマンの半年以上の年収分を頂けました。そのお金を元に、望遠レンズを買ったり、活動費を作って、アイドルの写真を撮って、小銭と言えないぐらいのお金を頂いていました。
拾われるようにテレビ業界へ。
その後、大映テレビの撮影現場にたまたま通りかかり、遠くから写真を撮っていました。
するとスタッフの方から声をかけられて、行ってみたら、怒られるのではなくて、近くで撮影して良いとの事でした。
その後、大映テレビのスタジオに遊びに来いということで、府中市にある撮影所に行って、気がついたら美術スタッフとして働いていました。
最初の作品は、ポニーテールはふり向かないというドラマでした。10歳の頃の高橋かおりチャン
アイドルだった森恵
その後は、天使のアッパーカットというドラマの美術部を経験してから、
演出部に転部して、このこ誰の子?というドラマを半年やってから保阪尚希
フリーランスになりました。そして、『裸の大将放浪記』『ダウンタウン探偵組』や2時間ドラマを数本やってから映画をやりました。これが僕の人生を変えるきっかけとなった作品です。
首都高速トライアルという作品でした。僕は高校時代からバイクをいじったり、車をいじったりしていました。そして、そこに目をつけられて、チューニングカーの担当を助監督という名目でやりました。
この首都高速トライアルがヒットしたかというと・・・それはなかったんですが、レンタルビデオが高回転で、評判が良かったのです。
当時、東映が『Vシネマ』という新しい形態の作品群が始まりました。当時のにっかつもそのムーブメントに乗っかるために製作をはじめました。
その第一作として、レンタルで人気があった首都高速トライアルに白羽の矢が当たって、その続編として『首都高速トライアル2』という作品を作りました。
この作品で、アシスタントプロデューサーになり、このシリーズはパート5まで作られました。僕は首都高速トライアル3~5迄、プロデューサーを務めました。
僕は得意分野でプロデューサーになりました。その時に思いました。
誰でも得意分野に気がついて、それを存分に生かせる環境さえあれば、自分の実力以上の仕事ができるんだって。
一部上場ゲームメーカーの誘いも断り、商業映像の世界で僕が生きている意味
その後は、商業映像であれば、写真でも、動画でも、何でも撮影していました。決して自主映画を撮ろうとは思いません。自主映画とはあくまでも自己満足ですから、僕のポリシーに反します。何回か自主映画の手伝いをやってくれというお誘いは頂きましたが、それは丁重にお断りしました。そして、某大手一部上場企業のお誘いも、映像関係でなかったのでお断りしました。
結婚は3回目
今まで2回の離婚と、3回の結婚がありました。最初の結婚は、ポニーテールはふり向かないの時に一緒に仕事をした、坂上亜樹さんとでした。2回めの結婚も職場恋愛から職場結婚でした。
中2の時に彼女が出来てから、現在に至るまで、彼女とか妻がいなかった期間は3ヶ月あったかな?そんな感じですが、けっしてモテモテだったわけじゃありません。『来るもの拒まず、去る者追わず』これは僕の人生総てに於いて流れている僕のアーキテクチャとも言えることです。
趣味はなにですか?
僕の趣味は2つあって、スキーです。と言っても、ゲレンデを普通に滑るのではなくて、ツインチップと言われる、フリースタイルスキーです。解りやすく言うとこんな感じです。
ゲレンデではなくて、パークを飛んでいたり、ハーフパイプを滑っていることの方が多いです。
この動画は、僕にスキーハーフパイプを教えて下さった、上野雄大さんです。
スキーでハーフパイプを滑り、ワールドカップでも4位まで上り詰めて、日本のフリースタイルスキーを牽引してきた、ある意味偉人です。今はスキーハーフパイプの日本代表のコーチをやっています。
もう一つの趣味は旅行です
僕が旅行に目覚めたのは、高校2年の時に初めて一人旅で北海道を自転車で廻った時からです。それまで、一人旅なんてやったこともありませんでしたし、自転車は好きでしたし、通学の自転車でしたが、本格的なサイクリングはやったことありませんでした。それでも思い立ったら抑えがきかない性格で、自転車を輪行して行きました。それから、国内、海外を問わず、撮影旅行や、仕事で行ってきました。バイクでツーリングも好きでした。
日本国内で行ったこと無い県は『高知、佐賀、長崎県』だけですね。海外で行ったことがあるのは、ハワイ、グアム、タイ、インドネシア、バリ島、フランス、スイス、チェコ、エジプトぐらいです。



それともう一つ
もう一つ、趣味と言えるかどうかわかりませんが、富士山に登るのも好きです。 富士山の登山道って、大きく分けると4つです。「吉田ルート」、「富士宮ルート」、「須走ルート」、「御殿場ルート」、僕は御殿場ルート以外は全部登っています。言い換えれば、御殿場ルートだけは登っていません。コレクター気質がある僕としては、御殿場ルートも登って、全ルート制覇したいです。
儲かっていたAV時代
商業映像ならばなんでもやりますので、当然AVもやりました。自分のレーベルも作りましたし、レンタルスタジオも経営していました。
この頃は僕のバブル期でした。僕一人で、年間5000万円以上の売り上げ(利益率75%)の狂った時期でした。その頃、僕の人生に陰りが見えてきました・・・
うつ病が発覚しました
うつ病の発症です。と言いましても、うつ病の症状がまったく出ない、仮面うつ病というタイプです。これは今でも闘病中です。皆さんは、自覚症状無しに自殺したことがありますか?僕は2回あるんです。
AVをやっていたこともあって、バスローブが20枚ぐらいありました。大人数物の撮影が終わったあと、バスローブの洗濯、乾燥が終わって、畳んでいた時に、気がついたら和室で寝転んでいました。傍らには千切れたバスローブの紐が転がっていました。こんな事がもう一度あって、当時、仲の良かったAVの女の子と話をしている時に「井上さんうつ病だよ」と言われました。
僕自身、うつ病というものを知りませんでした。でも、いきなり首を吊るのは普通じゃないと思い、インターネットで出来る自己診断サイトで診断しました。100点満点で、55点以上だったら病院に行けというものでしたが、僕は85点でした。見抜いてくれた女の子にもう一度会った時にその話をしたら、「私が通っている病院に行ったほうが良いよ」と言うことで、闘病が始まりました。
51歳になってアスペルガーとADHD(注意欠如・多動症)が認定されました
ぶっちゃけ言いますが、51歳になってからアスペルガーとか、ADHDを認定されるとつらいですよ。
何がつらいって、今まで僕が自然に振舞っていた結果、色々な人を傷つけていたんだなぁ・・・って思う事です。
ADHDは自分でも思っていました。編集をやるにしても、それがなかなか手につかなかったりしました。
PCの前に座っても1日、2日と1秒も編集できないこともありました。
気分が乗ると逆に何十時間でも集中してしまいました。
そして、今の井上慎介
その後も紆余曲折があって、今の妻と出会い、妻の自殺もあり、僕の人生はどん底になりました。頚椎損傷の障害者になった妻の介護のために、仕事もセーブして、生活保護になりました。その介護生活の中で必要になったので、ホームヘルパー2級と、実践心理学NLPのマスタープラクティショナーという資格を取得しました。
なぜ、オウンドメディアに特化したカメラマンをやっているのか?
そして、セミナーと集客を学び、ビジネス構築も生業にしています。今の時点の僕を客観的に見ると『何をやっているかわからない人』だと思いますが、撮影・心理学・集客・セミナーをやっている人です。
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